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【デビュー26周年】超大物神バンド「GLAY」が好きすぎる筆者プレゼンツ!駆け上がった90年代の光と影&マル秘エピソードまとめ!!

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こんにちは、楓川です。

今回は、デビュー25周年で現在もなお衰えぬ人気の国民的ロックバンド「GLAY」についてご紹介します!2020年はGLAYさんにとっても激動の年だったのではないでしょうか?特にコロナによってドーム公演も中止となり、配信ライブでの誤報なんていうのもありました。ですがそれでも揺るがないほど強固な人気を誇るGLAYさんの、今回は90年代にスポットを当ててみました。

 

 

 

GLAYとは

名前:GLAY(ぐれい)。GRAYではなくGLAYで造語。

由来:「白でも黒でもなく、何色にも染まらない」という意味。

結成:結成は1988年(まさかの私の生まれた年)

メジャーデビュー:1994年(デビュー曲のプロデュースはX JAPANYOSHIKIさん)

メンバー:TERU(Vo)、TAKURO(Gt)、JIRO(Ba)、HISASHI(Gt)

 

概要:元々YOSHIKIさん率いる「エクスタシーレコード」に所属しており、(他にもLUNA SEAZI:KILL等が所属)インディーズ時代からすでに人気があったんですね。「魔女狩りライブ」なんてワードはファンにはお馴染み。ライブ会場で販売、もしくは配布されていたカセットテープは瞬く間に拡散され在庫がなくなるほど。

 

そしてデビュー前は現在の4人のメンバーの他にドラムの「AKIRA」がいました。

ですがメジャーデビューに伴いAKIRAは脱退し、代わりに「NOBUMASA」が加入しました。その時のアーティスト写真に2人の姿が残されてます。いずれもアルバム、「灰とダイヤモンド」にAKIRA、「SPEED POP」にNOBUMASAの姿が残されてます!

 

その後、NOBUMASAは事務所の都合で脱退し、サポートメンバーとしてドラムに「TOSHI NAGAI」キーボードに「DIE」が参加しました。DIEさんはこの時、hide さんのバンド活動と並行して活動していました!!

ロスでのレコーディング

94年当時、まだデビュー前だったGLAYは、「灰とダイヤモンド」のリリースとデビュー曲「RAIN」の発売が決まっていた。

 

しかももう間も無く設立する予定のメジャーレーベル「プラチナムレコード」の第一弾アーティストとしてのシングルが「RAIN」なのである。しかもそのレコーディング場所がロス。当時ロスでレコーデングするというのはトップアーティストの一種のステータスのようにも見られていたのもあってか、メンバー5人は当時この知らせを聞いて浮き足立っていたという。

 

さらにあのYOSHIKIさんが直接プロデュースするというのだから、メンバーの喜ぶ顔が本当に浮かびますよね。しかもこの話をいつも集まっていた恵比寿の居酒屋で聞いたらしいです。

 

問題はその後__。

 

不穏な方向へ進む

ちょうどロスに飛び立とうとしていた矢先にロスで大地震ノースリッジ地震 - Wikipedia

)が起きたのである。その影響でレコーディングの日程が20日ほど遅れたという。

 

その後、何度目かのレコード会社のスタッフと会議で我慢ならないこと言葉を聞いてしまったそう。「やる気がないならやらなくてもいい」。「TERUの声とTAKUROの曲があればいい」…。もちろんこれは叱咤激励のつもりで発せられた言葉なのだろうが、あまりにも言葉が悪い。JIRO、HISASHI、AKIRAの3人はあくまでお飾りということか?若いメンバーたちには我慢ならなかったと思われる。

 

特にドラムのAKIRAはその胸中を赤裸々に公開している。

 

メンバーの離脱

特にスタッフから言われていたこととしては、とにかく「歌中心なんだ」ということ。日本でのレコーディング中も、とにかくその言葉をよく聞いたという。そのため、楽器隊が音を出すと「もっと音を小さくしよう。歌中心なんだから」と言われていたという。

 

確かにそう言われてみれば、「灰とダイヤモンド」と「SPEED  POP」の両アルバムを聴くとあまりにも音の厚みが違いすぎる。私は当時のはやりなのかと長年思ってましたが、この話を聞いて納得しました。

 

さらにこの当時、ドラムのAKIRAは別の音楽仲間との打ち上げの翌日のレコーディングに遅刻して大目玉をくらったり、ジャパニーズメタルから入った彼にとって納得のいかないレコーディングが続いたり…そんなこともあり、ロスでのレコーディングには参加せず、そのまま脱退したのである。

 

ちなみにこの時レコード会社のスタッフから「メジャーになるからバイトはやめてね」と言われスタジオの受付のバイトもやめたが、「考え方の相違」や「トラブル回避」のために 「ロスでのレコーディングには参加しないでほしい」と言われてしまっていたそうです。

こんなに悲しいエピソードがあったんですね。

 

 

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GLAYの売上枚数は?

やはりこのバンドの誇るべきところはそのシングル&アルバムのセールス数でしょうか!ロックバンドがミリオンセールスをする時代といっても限られたバンドしかなしえていません。ここではその売り上げ枚数を細かく調査しましたのでご覧ください!

 

シングル最低売上枚数

3rd シングル 「彼女の”modern…”」約2万枚(今となっては超人気曲ですがGLAYさん史上最低売上枚数)。

私は2004年の「HIGH COMMUNICATION TOUR」の時の「彼女の”modern…”」がめっちゃ好きです。

 

シングル最高売上枚数

winter,again」約164万枚。レコード大賞大賞受賞曲ですね。この歌の歌詞の「凛となる雪路」「滔々と白い雪は」などの部分に当時衝撃を覚えました。というよりこんな表現があるんだ!と小学生ながらに感銘を受けましたねー。

総売上枚数

日本で第8位(2018年時点)3800万枚越え。これはシングル&アルバムの総売り上げです。モンスターバンドですね!!

90年代その他の売り上げ枚数

○1994.05.25 RAIN 100,990

○1994.06.15 「真夏の扉」 42,940

○1994.11.16 「彼女の“Modern…”」 20,600

○1995.01.25 Freeze My Love」 71,850

○1995.05.17 「ずっと2人でGONE WITH THE WIND39,800

○1995.08.09 Yes, Summerdays」 232,300

○1995.11.08 生きてく強さ」 90,810

○1996.01.17 グロリアス」 592,870

○1996.08.07 BELOVED」 841,160

○1996.11.11 a Boy ~ずっと忘れない~」 273,260

○1997.05.14 「口唇」 994,120

○1997.08.06 HOWEVER」 1,341,980

○1998.04.29 「誘惑」 1,625,520

○1998.04.29 SOUL LOVE」 1,371,750

○1998.11.25 BE WITH YOU」 1,173,180

○1999.02.03 Winter, again」 1,642,530

○1999.05.19 「サバイバル」 895,710

○1999.08.25 ここではない、どこかへ」 921,150

 

90年代エピソード

さて、売上枚数を見ていただいても一目瞭然ですが、95年から一気にトップアーティストの仲間入りを果たしたGLAY。そんな龍の如く駆け上がる90年代のGLAYにはどんなエピソードがあったのでしょうか!?

 

イカ天の5年後には日本を代表するロックバンドへ

 

90年にテレビ番組「イカすバンド天国」に出演したGLAY。この当時はまだベースがJIROさんではありません。そして何本かコンテストには出ているのですが、あまりいい実績は出せずにいました。この時に歌った楽曲は「無限のdeja vu」。現在発表されているものとは全然違います。

 

楽曲はアコースティックに始まり、急にロック感が出ます。メロディはやはりGLAYだとわかるほどかなり印象的。ですが審査員からの評価にもあるように、もっと毒があっていい(いい毒素ですよ)し、アコースティックから抜けた時にもっと音に厚みがあった方が良さそうな感じもします。

 

しかしながらTERUさんの美しい歌声はすでに芽を出していました。この後バンド編成をして5人組になりますが、94年の灰とダイヤモンドを聴く限り、相当努力されたんだな、という印象があります。そしてこの才能を見抜いたhideさんも凄いですよね。

封印された楽曲

この一覧を見るとお分かりの通りで、95年にいきなり飛び抜けたんですよね。この影には黄金期のGLAYを支えた名プロデューサーの佐久間正英さんの存在が大きいのかもしれません。

 

そんな佐久間正英さんは、「彼女の“Modern…”」から正式にプロデュースする形となりました。

 

ちなみに「RAIN」はYOSHIKIさんのプロデュースで、「真夏の扉」は「すみれSeptember  love」の大ヒットでお馴染みの「一風堂」のギターボーカル「土屋昌巳」さんです。

 

この最初の3作品でプロデューサーが3人なんて考えただけでも大変そうですよね。実はこの当時、まず「YOSHIKIさんにはお世話になりすぎているから自立しよう」という考えがあったそうです。それで土屋昌巳さんとの出会いがあったそうです。

実際に売上枚数を確認していただくとわかりますが、真夏の扉よりも彼女の“modern…“の方が売り上げを落としていますよね。ですがGLAYは売り上げを落としてしまった作品のプロデューサーである佐久間正英さんを選びました。

これは、真夏の扉をレコーディング中に、TAKUROさんが作った世界観の真夏の扉土屋昌巳さんが壊す結果となってしまったからに他ならない。

これについては土屋昌巳さんご本人も言及しており、確かに音も違えば曲の構成も違う。一番終わりのギターソロ後に2番が始まるはずが、なんとカットされているのである。

 

これは私自身、結構ショックでした。当時、灰とダイヤモンドの真夏の扉が好きだったので、音に厚みの増した真夏の扉はどんなものかと聴いた時、「2番ねぇじゃん!」となったわけです。

そのため、GLAYさんはこの真夏の扉を封印してしまいます。そして01年の「GLAY EXPO」で久々に披露され、ファンは歓喜しました。

一方の佐久間正英さんは、全く口を挟まなかったそうです。とにかくプロとしてサポートするような姿勢でレコーディングに挑んだのもあって、TAKUROさん及びメンバーも絶大なる信頼を寄せていたようです。

そしてこのプロデューサー選びが功を制してGLAYの世界観が確立したのです。

 

レコーディングが複雑

 

夏の扉は2ndシングルでありながら、「RAIN」よりも先にレコーディングされているので、なんとドラムはAKIRAが担当しているレア作品です。

そう、メジャーデビューアルバムである「SPEED POP」には新メンバーのNOBUMASAの姿がありながら、なんとAKIRAが担当しているんですね。

ちなみに真夏の扉自体は、先輩であるLUNASEAの「mechanical  dance」にインスパイアされて製作された楽曲のようです。特にBメロは意識したそうですが全く似なかったとTAKUROさんは語っています。

 

オリジナル曲が少ない印象

Freeze My Loveをリリースした後、ファーストアルバムをリリースしてます。「ずっと2人で」は超超超名曲ですが(笑)、実はアルバムのリカットシングルなんです。ですから両A面の「GONE WITH THE WIND」から順に聞いていくと、GLAYの変貌というか、進化の仕方がわかるんです。

 

ちなみに私はこのシングルから手元にあります!

 

しかしこの当時は、今思えばカップリングもアルバムに収録されたり、ライブバージョンが収録されたり、そもそもの8cmシングルが合計3曲ほどしか収録できない(1曲はカラオケバージョン)のもあって、オリジナル曲が少ない印象でした。

 

それもあってか「GONE WITH THE WIND」はかなり新曲感があって嬉しかったですね。あとTERUさん髪切りましたね。

 

ちなみに「ずっと2人で…」はTERUさんのお姉さんの結婚を記念して制作された楽曲として有名ですよね。

斬新な売り方

ちょっと飛んで「サバイバル」の単位が「本」というのは、厳密にいうとCDではないからです。この当時すごく珍しかった「ビデオシングル」なんですよね。

当時この販売方法が超衝撃的だったんですけど、私個人的にはCDも欲しかったです。なんせTVでしかサバイバルのオリジナルバージョンが聴けなかったんで痛かったっ!

その後に出た「HEAVY GAUGE」にはアルバムバージョンだったので、ほんとに泣きたかったんですがのちにちゃんと収録されました。

あの「サバイバル」のアニメMVは、何度見てもかなり好きな世界観なんですよね、個人的に。なんというか、日本の都会の暗い部分というか、そこに人間の感情が浮遊している感じがなんとも言えぬ衝撃を受けたのを覚えています。

 

 

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メガヒットで苦労を解決

 

yes,summerdayの大ヒットのおかげで、製作者であるTAKUROの実家を長年苦しめていた借金をまとめて返済することができたそうです。

 

この楽曲は今聴いてもかなり特殊な曲で、イントロはまさにV系なんですが、Aメロ以降はかなりロック色が強いんですね。そしてテンポが遅いのに疾走感があるのも特徴。ギターソロもかなりインパクトがありますし、ドラムパターンもこれまでとは全く違う。

 

これが当時宝石部門で国内最大手だった「株式会社 三貴」の主力ブランド「

カメリアダイヤモンド」のCMに起用されたこともあって瞬く間に拡散されたんですね。やっぱりCMソングってすごいですよね。

急成長を遂げた95年−96年

当時(96年)といえば、アルバム「BEAT out!」がオリコンチャートで1位を獲得した年。それまでツアーをやったことがなかったGLAYは、ついに全国ツアーを開始させます。これがメンバーを急成長させるきっかけとなったようですが、特にhide with Spread BeaverのメンバーであるDIEさんとツアーを回れたのはかなり大きかったようです。

アルバムの一曲目に収録されている「More  than Love」はまさにその時の勢いが込められた楽曲だとHISASHIさんは語ります。TERUさんも、一番印象にあるPVとしてこの楽曲を選んでいて、やはり当時の気合いやイキイキとした音が表現されていて、映像を見ると色々思い出すと語っていました。

さらに加えて当時同じ事務所だったhideさんからは「GLAYはもっと自由にやった方がいい」と助言されていたようです。

 

こういったいろんな先輩方のおかげもあって自由に翼を広げるきっかけとなったようです。

 

佐久間正英氏の教え

 

ちなみにこの頃、実はレコーディングであることが起きます。それはグロリアスのレコーディングでのこと。この楽曲自体相当ノリノリになれるので、やはり当時メンバーもとても高揚した状態でレコーディングに挑みました。

一番ロック要素を持っているJIROさんは、誰よりもノリノリでレコーディングしていたそうです。ですがそんな姿を見て、佐久間正英さんは「もっとちゃんと演奏しなさい」と注意したそうです。

 

これはなんとPVを確認すると一目瞭然!「生きてく強さ」ではまだノッてますが、「グロリアス」だとふてくされてます

 

ですがどうやらこの時から直立不動の「JIROスタイル」が始まったようです。   

あの名曲は実は…

 

96年はシングルにアルバムとかなり忙しい年になります。2ヶ月後に発売予定のアルバム「BELOVED」の先行シングルである同タイトル「BELOVED」が発売され、大ヒットとなりました。

これはTBSドラマの「ひと夏のプロポーズ」の主題歌にもなり、多くの人の耳に触れることになりました。実はこの楽曲の制作の裏にはあるエピソードがありました。それは、ドラマのために楽曲を作って欲しいという依頼だったようです。

ですが、依頼者から言われた「楽曲の雰囲気」は石井明美さんの代表曲である「CHA−CHA−CHA」のような陽気な感じでとのことだったようです。まぁTAKUROさんがそう言った楽曲を制作するはずもなく、バラードが制作されました。結果的にドラマも楽曲も大ヒットとなったのでよかったですよね!

 

TERUさんに心境の変化

 

96年発売のBELOVEDはシングル&アルバムともに大ヒットを記録しました。特にこのアルバムを聴いていただくとわかりますが、「カナリヤ」「春を愛する人」「カーテンコール」「都忘れ」などの現在でも大変人気のある楽曲が詰まってます。

 

印象的なのは、これらの楽曲には「絶大な表現力が必要」という点です。特に「都忘れ」はミディアムテンポでピアノパターンが美しい。そして全体的に儚いのだ。それに比べて「Lovers change fihters,cool」「SHUTTER SPEEDSのテーマ」「HIT THE WORLD CHART!」はゴリゴリのロックである。この二極化した楽曲たちの間に「GROOVY TOUR」「Fairy Stoy」などの「静」と「動」、そして「美しさ」と「激しさ」を金揃えた楽曲が存在する。

 

これにはボーカルのTERUさんの歌唱力の向上が実現の鍵なのではないかと思われる。

 

確かにTERUさん曰く、最初の頃はとにかく「綺麗に歌うこと」を頭に入れてボーカルを磨いていたが、いつからかがむしゃらに歌うことを覚えたんだそう。確かにのちの「口唇」「HOWEVER」はまさにその努力が形になっている気がする。

 

サバイバルはしんどかった!?

 

99年にビデオシングルとして発売された「サバイバル」は、これまでもこの後にも存在し得ない「サビが早口」の特殊な楽曲に仕上がっている。この頃のTAKUROさんが作成する楽曲は、元のTERUさんのキーを全く考えずに作っていたそうで、歌ってびっくり。

「とにかく歌いづらかった」とTERUさんはいっていました。特にサビが早口なので、高温で早口だと最後の方が聴こえなくなってしまう。当時本当に辛そうで見ている私はハラハラしてましたw

 

ですがこれをきっかけに本格的にボイトレに励むようになったそうです。なので翌年の「とまどい」はこれまで以上に透き通ったTERUさんの歌声が実現しているのです。

 

前髪切りすぎた

 

これは「ここではない、どこかへ」リリース時のこと。PVはなんだか某冒険映画のような感じになっており、スーツ姿で移籍の上でバンドが演奏するという不思議な構図になってますがなぜかすごくかっこいいんです。

 

この楽曲もドラマの主題歌となり相当世間の方に拡散された印象ですが、TERUさんには一つ悩みがあったそうです。それは「前髪を切りすぎたこと」です。

 

当時メンバーには「おばちゃん」と呼ばれる始末w

でもとっても素敵ですよね! 

 

 

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GLAYの大記録とは

では多くの大ヒット曲を抱えるGLAYは、一体どんな記録を保持しているのでしょうか?もうファンにはわかり切った事実ですが、これを語らずにGLAYは語れないのでご覧ください!

GLAY  EXPO‘99

単独アーティスト有料公演の動員数が世界一で「20万人」!!

あの光景は今でも忘れられないですねー。あの時実は20万人超えたあたりから数えてないらしいですよ。これはTAKUROさん談なんですけど、LIVE開始までにお客さんが入り切らなくて1曲目がはじまっちゃったんです。なのでスタッフさんが無理やり詰め込んだそうで(笑)最後の方は全く数えられなかったんですって!

そんなことあるんですね

 

なのでチケットを獲得できなかったけど、近くにいたい!というファンもしれっとライブに参加できた可能性があったそうですw

 

莫大な製作費

 

当時私のうろ覚えですけどステージが1億円かかってるって言ってすごく話題になったんですよ。その後のGLAYの野外ライブをご覧の方はお分かりの通りで、すっごく「骨組み感」があるんです。

これって要は99年当時、前例がなかったからなんですよね。1万人とかの規模であればありますが、さすがに10万人を超える観客の前で演奏っていう前例が。

だから風の影響だったりで音響に障害が出ないようにとかいろいろチャレンジだったんですね。因みにこの後の10万人規模の「GLAY EXPO」では余裕で10億円を超える製作費で豪華なステージセットが組まれています。

 

ちなみに一番後ろからステージまではおよそ100mほど離れているそうで、現地にいるのにライブビューイングみたいな感じになっていたそうです。

現在だと、各アーティストも「トロッコのようなもの」で後ろの座先まで見えるようにぐるりと回ってくれますが、当時は真ん中のステージ(とは言いつつど真ん中ではない)まではステージが伸びてましたが後ろの席はもうメンバーが米粒ぐらいにしか見えないんですね。

 

そしてこの当時、メンバー全員度緊張していたそうで、HISASHIさん曰く頭の数曲は全く覚えていないそうです。

 

大規模野外ライブの弱点

 

この後の00年代に突入してもGLAY  EXPOは開催されていますが、20万人規模のものは開催されていません。これには理由があるらしく、どうやら音響の問題があるそうです。

 

正直、01年の段階では再び20万人規模のライブは可能でしたが、これだけ開けた土地でライブをやると、音が風にかき消されて最悪のコンディションとなるそうです。

スピーカーを後ろにたくさん設置するにしても莫大な費用がかかり、客席を囲むようにセットを組むのも難しい。そして何よりも来てくれたお客さんが、ライブ感を楽しめない可能性が高いのも要因だと。

 

そう言ったこともあり、なんと00年代はGLAYほどの大物アーティストが数百人規模のライブハウスでツアーを行なったりしたのです。

 

GLAYが感じた解散の予感

 

この90年代後半はまさにヴィジュアル系バンド全盛期でしたが、その中でもGLAYは頭一つ飛び抜けていました。勿論そこには多くの要因があるのですが、とにかくGLAYの楽曲は「万人受け」したんです。

当時GLAYを批評する書籍があって、その中では「歌謡曲JPOPとロックを混ぜた」と表現していました。

確かにGLAYの楽曲はキャッチーなリズムで非常にメロディアスでした。ヒット曲はファンじゃなくても聞いたことあるし、だいたい歌えたはずです。

それに加えてアルバムの曲もほぼシングルにできるレベルだったので、オリジナルアルバムも飛ぶように売れたんですよね。これは当時バンド界隈ではかなり珍しかったんです。

そして20万人ライブを成し遂げた

通常であれば事務所的には休ませてあげたいですよね。

ですがレコード会社から彼らは「じゃぁ次は21万人ライブだね」と言われたそうです。要は、「もっと頑張れ」ってことですよね。

 

疑問が生んだ負の連鎖

 

結局この時、レコード会社はアーティスト関連のものをどんどん売って行きたいので、プロモーションのためにバラエティ番組などにガシガシ売り込んでいたそうです。

そこでメンバーたちは疲弊し切ってしまい、移動車の中で「もうやめよっか」と言葉を漏らしてしまうのです。

メンバー全員がその当時の活動に疑問を抱いていたんですね。ファンとしてはもっとテレビに出て欲しいだとか、メディアに取り上げられて欲しいなんて思いがちでした。ですが本人たちはすでに限界を迎えていたんですね。

そしてその移動車の中で「今辞めたら事務所どうする?」「インディーズでいいじゃん」みたいに和気藹々と未来への妄想を膨らませるのです。

因みにこの頃の話し合いが現実となって、現在は自主レーベルで活動をしています。信じられませんが誘惑とかあのあたりの時の給料より今の方が断然多いそうです。どれだけ搾取されてたんだって話ですよ(悲)。

 

ぐちゃぐちゃに制作したあの楽曲

 

97年にGLAYはついに「HOWEVER」でミリオンヒットを記録しましたが、その前のシングル「口唇」はなんと「何にも思い付かずぐちゃぐちゃに作った」そうです。

当時TAKUROさんは「グロリアス」「BELOVED」の大ヒットを受けて、さらなるヒット曲を作成しなければならず、苦悩していたようです。締め切りも迫り、とにかくなんとか形に…と追い込まれた結果、「口唇」が完成します。

TAKUROさんは、もしこの楽曲が売れなかったら解散しようとまで考えていたようです。ですが蓋を開けてみたらびっくり。超大ヒットとなったわけです。

 

ちなみに「HOWEVER」は代表曲ですが、こちらはメンバーからかなり不評だったそうです。サビパートだけをTAKUROさんが歌ったものをメンバーに「次の新曲これにしようかと…」と聴いてもらったが、「こんなの売れる気しないんだけど…」と、もれなく全員思ったそうです。私もこのデモテープをラジオで聞いたことがありますが、全然かっこいいですw

ですが多分、歌ってるTAKUROさんがかなり小さい声で呟くように歌っているし、完成した楽曲を聞いたあとなのでいい印象になるんですよね。

当時自分がメンバーだったら確かに不安になるかもしれないw

 

何はともあれ97年の解散危機というのは免れたわけですね。

 

90年代はGLAYにとって光と影の共存

これだけ幅広い世代に愛されている国民的ロックバンドでも、特にこの90年代というのはある意味で闇の時代だったのかもしれないですよね。

音楽が好きでバンドやってて売れたら「売れなくなるなよ」とプレッシャーをかけられる。今だったらアウトですが、そのせいもあってか音楽業界全体的にヒット曲が減りまくりましたね。今は10万枚売れたら大ヒットです。

ですが当時は50万枚売れてようやく「売れてきた」感覚のようで、エレカシさんが50万枚売れた時、死ぬほど喜んでたらGLAYが出てきて意気消沈したというエピソードがあります。

50万枚も大ヒットなんですが、その頃のGLAYは「HOWEVER」でした。口唇と並んで大ヒット中でしたし、ビックリしすぎたらしいです。

そこからリリースするシングルもアルバムも全てヒットしましたが、当事者は

でもありがとうと伝えたいです私は。GLAYがいなかったら音楽になんて目覚めなかったし10代の頃なんて楽しくなかったハズ!GLAYさん、これからもよろしくお願いします!!

 

 

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